フランツ・アント・ベッケンバウワーはドイツ(旧西ドイツ)出身のサッカー選手。現在はバイエルン・ミュンヘン会長、およびドイツサッカー協会副会長を務める。選手時代のポジションは主にディフェンダー(リベロ)、守備的ミッドフィルダー。2006年FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。ドイツ出身だが、1982年にオーストリア・チロル州に移住、1990年前半にはオーストリア国籍を取得した。
攻撃に参加するスイーパーとしてフットボールに革新をもたらしたベッケンバウワー。ピッチ上で味方の選手達を操るその威風堂々とした風格と
『神よ、皇帝フランツを守り給え』
に詠われたオーストリア帝国皇帝・フランツ1世と同じファーストネームであることから、der Kaiser(皇帝)と呼ばれていた。
また、キャプテンと監督の両方で母国をFIFAワールドカップに導いた唯一の人物でもある。
ベッケンバウワーというフットボーラーをリベロ・システム抜きに語ることは出来ない。いわば「攻撃に参加するスイーパー」であるこのポジションは「ディフェンダーは守備専門」という従来の概念を根底から覆す革新的なものだった。
もちろんこのポジションをベッケンバウワーが確立できた背景にはその理論だけでなく、フィジカル重視で守っていた当時のディフェンダーと明らかに一線を画す、彼の非常に高いテクニックとユーティリティー性があったことは言うまでも無い。
またその絶大なる守備力の裏には、試合の流れを素早く読む天才的な洞察力があった。常にピッチ全体を見回して危険を素早く察知し、自らの早い動き出しと味方への的確な指示で相手攻撃陣を知らずのうちに網をかけていく。その有機的な組織ディフェンスの完成度は。もはや芸術の枠に達していたと評する者もいる。
1970年代にはフットボール界で起こった革命、というとほとんどの人はクライフを中心としたアヤックスやオランダ代表の「トータルフットボール」を挙げるが、バイエルンミュンヘンと西ドイツ代表で創り上げられた「リベロ・システム」という理論もこれに匹敵する革命といえる。ただ全世界の目に触れたのが皮肉にも、フィールドの全員が目まぐるしくポジションチェンジを行うダイナミックなオランダ代表のトータルフットボールと同じ1974年のワールドカップであったため、華やかさで見劣りするリベロ・システムは大会の主役となることが出来なかった。
バイエルン・ミュンヘンでは長らくリベロの役割を任されたが、代表では1966年と1970年の二つのW杯で中盤の底(ボランチ)で攻守のバランスを取りながら果敢にゴール前に上
がり、チャンスメイクと自らゴールに向かう動きをみせていた。1971年から代表でもリベロに移り、1972年の欧州選手権と1974年のW杯という2大タイトルの制覇に大きく貢献し
た。特に1972年の欧州選手権ではギュンター・ネッツァーとの交互ゲームメーク(ダブル司令塔)という時代の最先端の戦術を披露、圧倒的な強さを誇った同大会の西ドイツ代表をドイツ史上最強に推す声も多い。
■ 「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」
(1974年 西ドイツ大会優勝時)
■ 「(バンドールを獲得するために)私はこれ以上何をすればいいんだ」
(1974年に西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンのキャプテンとしてワールドカップ優勝、UFFAチャンピョンズカップ優勝という偉業を成し遂げたにもかかわらず、同年代のライバルであるヨハン・クライフがバロンドールに選出された時に漏らしたコメント)
■ 「サッカーは人生と同じだ、いつも上手くいくわけじゃない」
■ 「サッカーを心の底から愛してこられたこと、強い意志で試合に臨めたこと。そして、運、この三つに自分は支えられたんだ」
■ 1954年ー1958年 SCミュンヘン06
■ 1958年ー1977年 FCバイエルン・ミュンヘン
■ 1977年ー1980年 ニューヨーク・コスモス(USA)
■ 1981年ー1982年 ハンブルガーSV
■ 1983年 ニューヨーク・コスモス(USA)