1920年、ルドルフ・ダスラー(兄)とアドルフ・ダスラー(弟)が「ダスラー兄弟商会」という靴製造会社を設立し、室内用のシューズを作りはじめたのが、現在のアディダスの前身。
 アディダス(adidas)の名は、創設者アドルフ・ダスラーの通称「アディ(Adi)」とセカンドネームのダスラー(Dasler)を繋げたアディ・ダス(ラー)から生まれた。皮で作られたスポーツシューズの補強のために編み出された3本のバンドが、今ではアディダスの象徴となっている。
 ヘルシンキオリンピックで西ドイツの選手全員がadidasシューズを履いて以来、その後のオリンピックで圧倒的な支持を集めることになる。特に西ドイツが優勝したワールドカップ西ドイツ大会では選手全員がadidasを履き、その中でもベッケンバウワーのadi das好きは有名。現在ではフランス代表のスポンサーや、有名サッカー選手のジダン、ベッカムも愛用している。
 創業者アドルフ・ダスラーの考える、選手にあった靴を作り、選手と競技を発展させる、と言った精神を貫き通すことで常にヒット商品を発表し続け、現在の地位まで登り詰めた。


 アディダスの創設者アドルフ・ダスラーは1900年、ドイツ中南部のヘルツォーゲンアウラッハのユダヤ系靴職人の息子として生まれた。父親が靴職人だったためか、彼も靴職人を志し、20歳になる1920年に兄ルドルフ・ダスラーと共に「ダスラー兄弟商会」を設立。自身が陸上競技の選手だった経験から、スポーツ選手それぞれに合った靴の必要性を感じていたダスラーはこの「ダスラー兄弟商会」でスポーツ専門靴の開発を始める。
 1924年には、スポーツシューズ工場を建て、体育館用シューズを本格的に作り始める。その後、1925年に6本の固定スパイク付きランニングシューズ、1929年に世界初釘止めスタッド付きサッカーシューズを完成させ、次々と画期的なシューズを開発していく。
 そのような中、ダスラー兄弟は、世界的なスポーツの祭典オリンピックに目を向け、数多くの選手たちと語りあい、シューズの品質・安全性を追求した。それにより、「ダスラー兄弟商会」は、飛躍的に成長していった。
 しかし、第二次世界大戦終結から3年後の1948年、兄ルドルフ・ダスラーと意見が食い違い、分裂を余儀なくされた。この分裂後の1948年、アドルフ・ダスラーは47名のスタッフと共にヘルツォーゲンアウラッハにアディダス社を設立。現在のトレードマークになっている3本線もこの頃から使われ始めた。
 アディダスはオリンピック、ワールドカップを最高の舞台と考え、自社ブランドのPRだけでなく、一流の選手同士が真剣勝負する舞台だからこそ、自分たちの作ってきたシューズを試す場として、選手たちの熱い思いに応えるべく、貧欲に製品技術向上を目指し、改良を重ねていく。このアドレフ・ダスラーのシューズにかける情熱t積み重ねてきた努力が、おのずと世界のブランドとして認知されていった。
 1970年にはバスケットシューズの「スーパースター」、クロスカントリー用シューズの「カントリー」など名作も数多く発表。
 創業者アドルフ・ダスラーの考える、選手にあった靴を作り、選手と競技を発展させる、と言った精神を貫き通すことで常にヒット商品を発表し続け、現在の地位まで登り詰めた。
 元々スポーツメーカーとして老舗であり、開発的にも天才的な技術者であるアドルフ・ダスラーを擁したアディダスは1970年までシューズメーカーとしてトップメーカーの地位を不動のものにした。しかし、1970年以降はじまるランニングブームを軽視したアディダスは後発のナイキ、リーボックに遅れをとり、1990年前半には業界3位にまで転落した。その後、社長に就任したドレフュスによって驚異的な復活を遂げ、2006年にリーボックを買収し、現在はナイキに次ぐ世界2位のスポーツブランドとなっている。